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花より美しい彼女

シナリオ ユキか
執筆原稿 北条コウ様
タイトル:「花より美しい彼女」

水之花1_edited.jpg


 カチカチカチと時計の針が規則的に動く音にホワイトボードにペンを走らせる音が混じる。
 それ以外の音がない静かな部屋には窓がなかった。
 そのため屋外の様子を知る術がなく天気も太陽の位置も確認することはできないが、部屋に取り付けられている時計で十三時頃であることが分かる。
 白を基調とした部屋には同じく真っ白な机と椅子が等間隔でいくつも並べられていた。
 そして、その最前列、中央の席には女性が座っていて、彼女の目の前では男性がホワイトボードに向かって文字を書き連ねていた。
 ——男性は人間で、女性は妖精だった。
 妖精は『人間の感情』を学ぶため、こうして人間による講義を受けている。
 だが、妖精はメモを取る素振りも見せず、何かを窺うように皺一つない男性の白衣に真剣な眼差しを向けていた。
「……今回の授業は、人間の感情の喜怒哀楽の一つ、『喜び』から始めます」
 人間が振り返ると妖精の真紅の瞳に男の顔が映る。
 男の表情は無に近く、そんな彼から感情を読み取ることができず、妖精は思わず眉を顰めた。
 それは己の感情を表情に出すことをこの男が苦手としているからなのだが、人間の感情への理解が乏しい妖精には、まだその判別がつかなかった。
 最低限しか変化しない男の顔を観察するように更に見つめるも男は妖精から、わざとらしく目を逸らすと言葉を続ける。
「嬉しいという感情です。人間は嬉しいと笑顔になります。ニコニコと幸せそうに笑い、声を弾ませます。ほとんどの人間が、他人が喜んでいるということを目と耳で知覚できるでしょう」
 淡々とした言葉には感情が薄く、声にも抑揚がない。
 だが人間の感情がまだよく分かっていない彼女にとっては、彼の無機質さはそこまで気にならないようだった。
 それよりも彼女は彼が話した『笑顔』という表情が気になった。『喜び』という感情を目や耳で感じ取ることができるそうだが、妖精は目の前の人間が『喜んでいる姿』を見たことがない気がしたからだ。
「ねえ、笑顔ってどんな表情?  よく分からないから、永松さん、ちょっと笑顔してみて」
 妖精からの突然の指示に人間は内心、狼狽えた。
「私が……ですか?」
「うん。だって言葉で聞いているだけじゃ分からないもん」
 そう妖精に言われ、『永松さん』と呼ばれた人間の男は目線を自分の足元へと下げ、難色を示した。
 しかし、その素振りを見せたのは数秒の間だけ。彼女にきちんと感情を教える上で確かに必要なことだと考え直した永松は「分かりました」と呟くように言葉を返した。次いで己の人差し指を頬に当て、口周りの硬い表情筋をグイッと上の方に動かすと眼鏡が持ち上がり不恰好な笑顔を披露する。
「……このように口角を上げて、口元と目を弓形にします。時には口を大きく開けて歯を見せたりもします」
「ふうん。こう?」
 永松の行動を真似て、妖精は己の顔を手で思いきり変形させた。
 その素直な行動。愛らしい表情。普段の彼女が漂わせる凛とした雰囲気とのギャップに永松は思わず「可愛い」と感情のままに声に出しかけた。
 しかし、まだ彼女とはまだ出会って二度目。顔見知り程度の関係性の中、ストレートにそんな感想を投げてしまうのは失礼では?と永松は思い止まると、湧き上がる感情を取り払うためにサッと顔を逸らした。
「はい。そんな、感じです」
「……よく見てもいないくせに。適当なこと言わないで」
 鋭さを持った妖精の声が空気を凍らせ、部屋の温度を下げる。永松は恐る恐る顔ごと目線を妖精の方へと向けると彼女は永松を睨むようにジッと見つめていた。
 妖精が人間と同じ感情表現を持っているならば、やはり怒っているように見える。
 この状況の中、こんなことを考えるのは不謹慎なことだという自覚はあるのだが、永松は彼女に対して『怒っている顔も美しいんだな』と、ついつい思ってしまった。
 そして思い返す。
 私が初めて彼女……『柊雪』に出会った時のことを。
 ——美しいものに初めて心を奪われた、あの衝撃を。

 ◇

 私、永松が所属する機関、『JUXER』は様々な種族を研究している。
 その分室で所長が立会いのもと、私と柊雪さんは出会った。
 私が所属する部署では『水の花』と呼ばれる幻の植物を研究している。
『水の花』には強大な力があり、本当の愛を持つ者だけが『水の花』を手に入れることができるという言い伝えがあった。
『水の花』は『白昼の森』に咲くと言われていること。
『水の花』は、とある湖の水面で蝶が飛び回る中心に咲くこと。
 その程度の情報しかない状況の中、ひたすら『白昼の森』を探索する日々を続けていたある日。森の奥底深くで彼女を見つけた。
 探索班が彼女と出会った時、水浴びをする彼女の周りで藍色の蝶がいくつも飛んでいるのを見たそうだ。
 偶然か定かではないが、彼女がその『水の花』についてなんらかの関係があるか、何か知っているのではないかと所長は考え、彼女に研究への協力を求めた。
 妖精に何かをお願いするなんて、一体どんな対価を要求されるのだろうと身構えたが、彼女が私たちに求めたものは意外にも『感情について学びを得ること』だけ、だったそうだ。
 彼女いわく、彼女は生まれたばかりでまだ『感情』というものを理解できていないらしい。
 人間の感覚で構わないから感情を理解したい。それを教えてもらうことができたら『水の花』の探索に協力すると返したそうだ。
 というわけで、そのやりとりの末に私が彼女の先生役として選ばれた。
 どんな人から教わりたいかと所長が彼女に訊ねた際に私の写真を見て指名したらしい。
 確かに昔からエルフや魔法生物に好かれやすい体質で、それも見込まれてこの部署に配属されたので、所長としても納得の人選だったそうだ。
 本人にどうして私を選んだのか理由を聞いてはいないが、妖精に選任されたというのは誇らしくもあり、楽しみでもあった。滅多に会うことができない存在と会話ができるのだから嬉しくない研究者はいない。
 柊雪さんとの初対面の日。私は子どものようにワクワクする気持ちを抑えながら所長が用意した彼女専用の教室へと向かった。

 ◇

 所長の後ろに付き、部屋の扉を潜るとホワイトボードの前に一人の女性が立っているのが見えた。
 淡い灰色の髪は腰よりも長く、彼女が動く度に蛍光灯の青白い光を受けてキラキラと輝いた。透明感のある色白の肌に映える、ルビーのように真っ赤で大きな瞳にジッと見つめられるとドキリと心臓が跳ねてしまう。
 表情が形作られていない顔のパーツは人形のように綺麗に整えられていて凛とした雰囲気は神秘的で、神々しく、とても綺麗な人だと思った。
 清らかな水のような空気を纏い、大輪を咲かせた花のような美しさと華やかさがある。『水の花』が存在するのならば、きっとこれくらい美しいだろうなと、そんなことを思った。
「彼女が柊雪さんだ。こっちは研究員……いや、先生の永松くんだ」
 所長の声に私はハッとし、彼女に注ぎ過ぎた視線を誤魔化すように軽く会釈をした。
「永松と言います。その、よろしくお願いいたします」
「柊雪。雪と呼んで、永松さん」
 澄んだ綺麗な声に名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げると彼女は唇を緩やかに弛ませ微笑みを見せた。
 彼女が……雪さんが動く度に、ふわりと花のような甘い香りがしてまた鼓動が大きくなる。心臓の音が大きくて思考が乱れ、掛けられた言葉もあまり覚えていない。目を合わせると自分の感情を見透かされそうで、そこから私はまともに彼女の顔が見られなくなってしまった。
 こんな状態で雪さんを相手に授業なんてできるのだろうか。
 そんな不安は数日後、的中することとなった。

 ◇

「――さっきからどうしてこっちを見ないの? もしかして、妖精が嫌い?」
 何かを疑うような柊雪の眼差しに永松の心がチクチクと刺される。
 好意的に思っているのに変な方向に誤解されているのは流石に困ると永松は思ったが、上手い弁解が浮かばず、その場を取り繕う言葉を探すので手一杯のようだ。
「いえ、そういうわけではなくて……ですね……」
「目を合わせるか、それが出来ないなら理由を言いなさい」
 柊雪は席を立つと永松の方へと詰め寄った。そして彼の顔を両手で挟むように触れ、グイッと力任せに正面を向かせると視線を交えるように訴え掛けた。
「……はい」
「その表情は何を表しているの? 授業なんだから、分かるように教えて」
 そう訊かれると永松は何と答えるべきか考えあぐねた。
 おそらく柊雪が憤りを感じているのは、自分が何かを隠している素振りを見せているからだろう。嘘を吐いている、ということがバレているのだから、怒らせるのも当然のことだ。
 これ以上、関係性が悪化するくらいならば彼女に対してそういう想いがあるのだと素直に話してしまった方が良いのではないだろうか。
 野に咲く花が美しいと感じるのは至極自然なことなのだから。
 そう考えると永松は意を決して、ゆっくりと口を開いた。
「その、……あなたが、雪さんが……あまりにも綺麗で。緊張している顔、です」
「嘘」
 永松が何とか捻り出した正直な言葉を断つように、放たれた声には強い意志がこもっていた。
「ほ、本当です……!」
「うーそ!  そんな理由だとして、どうして隠す必要があるの。君のその目、仕草。疚しいことを隠している人間の行動でしょ。人間の感情が分からなくても、それくらいのことは分かる」
 そう言って妖精は不機嫌そうに頬を膨らませた。
 先程の永松の言葉に嘘はなかったが、妖精は人間が『善意から自分の感情や気持ちを隠すこと』に対して理解が出来なかったのだ。
「本当なんです……! 人間は確かに嘘を吐くこともあります。実際、私もさっき雪さんに対して自分の感情を隠すようなことをしていました。でも、これは雪さんに伝えるのは失礼かなと思って隠していただけで、そこに悪意があったわけではないです」
 永松は柊雪から視線を逸らすことなく、真摯に言葉を紡いだ。
 どう説明したら分かってもらえるだろうか。どんな言葉であれば彼女の心に届くだろうか。永松は必死で考えを巡らせると何かに気付いたのかハッとした後、掌を見せる形で己の右手を彼女の前に差し出した。
「手を、お借りしてもいいですか? 可能であれば、私の左胸に触れてほしいのですが」
「構わないけど。……何だか熱いわね。それに人間の、心臓だっけ? すごく早く動いてる。激しい雨が地面を叩きつけるリズムに似てるわね」
 状況を事細かに話す彼女の言葉に永松は気恥ずかしそうに眉を曲げ小さく笑みを溢した。
「妖精の姿は文献や資料で見たことはありました。ただ、実物を見たのは雪さんが初めてで。まさか、マーメイドのように美しい妖精がいるなんて、驚きました。……えっと、つまり……あなたがあまりにも美しくて……胸がドキドキしているんです」
 しっかりと目を見つめたまま、永松がそう言葉にするも柊雪はきょとんとしていた。彼女の表情から真意が伝わっていない気がして永松は慌てて言葉を選び直した。
「人間は緊張状態になるとこんな風に心拍数や血圧が上昇したりします。緊張する理由はいろいろあるのですが、私の場合は雪さんのことをとても美しいと感じているので、あなたに対して使う言葉や態度に気を遣わなければと思って緊張するんです」
 柊雪が理解しやすいように、言葉を咀嚼する余裕があるように、なるべくゆっくりと説明をすると永松は一呼吸置いた。自分の心の中を吐露することに少し気恥ずかしさを感じつつも永松は誤解を解きたい一心で再び口を開く。
「……とても綺麗な花が咲いているのを見かけたら、わっと嬉しくなったり、触れることを躊躇したり、大切にしないと……と気を張ったりするでしょう? そんな感覚で私は雪さんのことを見ているんです」
 伝わりましたか?と永松が訊ねると柊雪は何となくと返した。
「それは永松さんにとって、いいこと?」
「良いと思います。緊張は確かにしますけど、僕にとっては嬉しいことです」
「ふうん。その割にはニコニコ笑ってもいないけれど」
「すみません。その辺は更に複雑な感情が絡まっていて。それと僕、感情表現が苦手でして……。それなのに雪さんの先生役なんて、変ですよね」
 苦笑混じりに話す永松に対して妖精は悪い顔をしなかった。
「別にいいよ。誰でも苦手なことはあるでしょ。私もまだ、人間の感情ってよく分からないし。難易度が高い方が読み取る練習にもなるからね」
 柊雪は明るく笑いかけると、それにしても……と呟いてから言葉を続けた。
「善意であっても、わざわざ感情を隠すだなんて。人間って変ね。そんなことをしたら人間同士だってコミュニケーションが取りづらいじゃない」
「それは確かにそうだと思います。人間は複雑で、ややこしくて、変なんですよ」
「……人間の感情を理解するって、我ながら高い目標にしちゃったわね」
 そうですねと同意しながら永松が笑うと柊雪は嬉々として目を輝かせ、興奮気味に問い掛けた。
「ねえ、今笑った?  笑ったよね?」
「えっ! ああ、そうですね。つい笑っちゃいましたね」
「それは、どういう笑顔?」
「えーっと……誤解が解けて良かったとホッとした顔でもありますし、嬉しいって気持ちから出たものでもありますね」
 永松の説明を受けて柊雪は上機嫌に笑みを深めた。どうしてこんなに喜んでいるのか、永松は分からず、彼女の様子を不思議そうに眺めていると不意に柊雪が彼の右手を握った。
「喜びについてはまだまだ勉強しないとだけど、永松さんの笑顔がどんな表情か分かったから良かったわ。君の手や心臓が、陽だまりみたいに温かだったことも、嬉しい発見ね」
 声を弾ませてそう言うと柊雪は柔らかく微笑んだ。その笑顔や彼女から受け取った言葉によって永松の心臓の動きが更に加速したが誰にも伝わることなく、ただただ心音が彼の中で大きく響く。
 心が乱される原因は彼女の容姿だけではなく、純粋な心から出てくる言動にもあるんだろう。
 そう永松が痛感する中、心臓の鼓動を宥めようとするも彼女の手の温もりがそれを許してはくれなかった。

 

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